母のがん治療が始まる(小細胞肺がん)

2026年01月13日 21:01

命の火を灯し続けて:母と私たちの、静かなる抗い

宣告、そして「生」への執念

「小細胞肺がん」――その響きは、あまりにも残酷だった。 進行は電光石火、手術も生検も叶わぬほどの危うい均衡。針を刺せば、眠れる獅子を呼び覚ますかの如く、がん細胞が全身へ霧散するリスクがある。私たちは、最新鋭の武器を手に、目に見えぬ強大な敵と対峙することとなった。

PET-CTが映し出したのは、肺に灯った不気味な光。だが、幸いにも多臓器への侵略はまだ許していない。 「ステージ3」 医師の宣告を突きつけられたその時、母は崩れ落ちるどころか、その瞳に静かな、それでいて剥き出しの闘志を宿して言った。 「生きたい。私、まだ生きたいの」 その一言が、私たちの戦いの号砲となった。

姫カットの冠

最新鋭の放射線治療「IMRT」による精密な狙い撃ちと、日々進化を遂げる抗がん剤の波。入退院を繰り返す過酷な日々の中で、母の美しかった髪は失われ、露わになったのは戦士のような坊主頭だった。 私たちは、母の沈む心を救うべく、画面越しに「新しい髪」を探した。 「これがいいわ」 母が指差したのは、なんと10代や20代が選ぶような、可憐な**「姫カット」**のウィッグ。 病に侵されてもなお、一人の女性として輝くことを諦めない。その遊び心と強さに、私たちは涙が出るほどの勇気をもらった。そのウィッグは、病魔に立ち向かう母にとって、気高き冠(ティアラ)そのものだった。

夢の薬と、家族の絆

治療は一進一退を極めた。進行は食い止めたものの、敵は依然としてそこに鎮座している。 そこで私たちは、ノーベル賞の叡智を結集した「夢の新薬」オプジーボに賭けることにした。一回30万円という途方もない価値を持つその滴が、母の体内で新たな防壁となることを祈りながら。 父は、母の曇りがちな心を晴らすべく、あちこちへ車を走らせた。一瞬一瞬を記憶に焼き付けるような、切なくも温かな逃避行。それは、言葉にできない父なりの「愛の形」だった。

迫り来る影、そして決断の夕暮れ

異変は、何気ない夕暮れに訪れた。 看護師から告げられていた「低血糖」という伏線。私は、胸を騒がせる予感に突き動かされ、母の携帯ではなく、あえて自宅の電話を鳴らした。

「……〇〇、帰ってきて……」

受話器から漏れる、呂律の回らない、微かな、縋るような声。 その瞬間、私の背中を戦慄が走り抜けた。 「母が倒れる」――その映像が脳裏にフラッシュバックする。 自宅まで車で20分。その時間は、今の母にはあまりに長すぎる。 「119番だ。今すぐ、やるしかない」

職場から震える指でダイヤルを回す。「がん治療中」「低血糖の疑い」「鍵は開いている」。冷静を装いながらも、心臓の鼓動は破裂しそうだった。 見守りカメラに映る、リビングの床にぐったりと伏した母の姿。その絶望的な光景を振り切るように、私はアクセルを踏み込んだ。

命を繋ぐ45分の疾走

自宅に辿り着いた時、そこにはすでに赤色灯が回っていた。 救急隊員の緊迫したやり取り、バイタルチェック、そして搬送先の選定。私は必死にがんセンターでの治療状況を訴えた。 祈りが通じたのか、センターからの受け入れ承諾が降りる。

救急車が夜の闇を切り裂き、走り出す。 がんセンターまでの距離は、片道45分。 遠く、あまりにも遠い道のりだが、そのサイレンの音は、絶望の淵にいた母を、再び「生」の世界へと引き戻すための、力強い凱歌のように響き渡っていた。

4. 運命の45分、そして再起動

遠ざかるサイレンの音を追うように、私は一心不乱に車を走らせた。 がんセンターの救急入口に滑り込んだ時、そこには戦場のような緊張感が漂っていた。運び込まれた母の顔は蒼白で、意識は混濁している。しかし、名医たちが集うこの場所こそが、最後の砦だった。

処置室の扉が閉まる。 低血糖による昏睡――。オプジーボという強力な光の影で、母の体は悲鳴を上げていたのだ。 数時間後、廊下に現れた医師から告げられたのは、「一時は危なかったが、処置が間に合った」という言葉だった。 崩れ落ちそうになる膝を、私は必死に堪えた。あの時、迷わずに119番を押した指の震えが、ようやく止まった気がした。

5. 「姫カット」の帰還

数日後、病室で目を覚ました母が最初に口にしたのは、謝罪ではなく、明日への意志だった。 「驚かせてごめんね。でも……まだ、負けてないから」 掠れた声。けれど、その瞳の奥にある焔(ほのお)は消えていなかった。

自宅に戻った母は、以前よりも少しだけ小さく見えた。けれど、あの日一緒に選んだ「姫カット」のウィッグを被ると、鏡の中には、病魔を嘲笑うかのような凛とした女性の姿があった。 若々しいその髪型は、単なるおしゃれではない。 「私は、私の人生を諦めない」 という、母が世界に向けて放つ、無言の抵抗。その姿は、家族の誰よりも気高く、美しかった。

6. 家族という名の円舞曲(ロンド)

父の「思い出作り」の旅も、今では少し形を変えた。 遠出は難しくなったが、リビングで母の好物を囲み、とりとめのない会話を重ねる。そんな、かつては当たり前だと思っていた時間が、今では宝石のように光り輝いている。 父の不器用な優しさと、母の強靭な生命力。そして、あの夕暮れの決断。 私たちは、がんという巨大な闇に翻弄されながらも、確実に「今」という瞬間を刻みつけている。

7. 終わらない戦い、繋がる命

現在、治療は今も続いている。 小細胞肺がんという難敵は、今も母の体内で息を潜めているかもしれない。けれど、私たち家族はもう、ただ怯えるだけの存在ではない。 あの夜、救急車の中で繋がれた命。 119番のコール、救急隊の迅速な搬送、そしてがんセンターの懸命な処置。 その一つひとつが、奇跡のパズルとなって母を今日へと導いてくれた。

母は今日も、あの姫カットのウィッグを整え、鏡に向かう。 その背中は、どんな最新の新薬よりも、どんな高度な装置よりも、力強く「生」の尊さを物語っている。 私たちは戦い続ける。この愛おしい日々が、一分一秒でも長く続くように。 母が「生きたい」と願う限り、私たちの夜明けは、すぐそこにある。

聖域の守護者:わが誓い、母への献身

あの日、受話器越しに聞いた母の掠れた声。私の名前を呼ぶ、あの消え入りそうな響き。 それが最後になっていたかもしれないという恐怖を、私は一生忘れないだろう。 119番のボタンを押した瞬間の指の震えも、赤色灯を見送った時の夜の冷たさも、すべては私の魂に深く刻み込まれた。

私は決意した。

運命がどれほど過酷なカードを突きつけてこようとも、私はこの手の届く範囲にある「母の命」を、何があっても守り抜くと。 小細胞肺がんという狡猾な敵が、母の体力を削り、その光を奪おうとするならば、私はその倍の熱量で、母の行く先を照らす灯火になろう。

父が不器用な手つきで母を外へ連れ出し、一瞬の輝きを積み重ねるように、私は「決断」という盾を持って、母の日常を死守する。 仕事の忙しさも、日々の疲れも、母が漏らした「生きたい」という叫びの前では無に等しい。 最新の薬、高度な医療、そして私という家族の意志。使えるものはすべて使い、母が「姫カット」のウィッグを被って微笑む、その一瞬を一日でも長く、一秒でも深く、この世界に繋ぎ止めてみせる。

「お母さん、あなたは一人じゃない。」

かつて私を慈しみ、育ててくれたその手に、今度は私が力を込める番だ。 たとえこの先、どれほど暗い夜が訪れようとも、私は決して目を逸らさない。 母の強さを信じ、父の想いと共に歩み、私は私の全存在を懸けて、この戦いを支え抜く。

この命の物語の結末は、誰にも、そして病魔にさえも決めさせはしない。 私たちが共に生きる「今」という奇跡を、私は一歩も引かずに守り続ける。

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